くれない幻想譚


 友達に別れを告げ、僕は右に曲がって公園に入った。
 今は秋。公園にあるたくさんの木々が、色づいている。もっとも家への近道としていつも通っている道だから、それに特別に気を留めることもないのだが。
 ただただ毎日同じように、決まったコースを通る。今日も、何も考えず、文庫本を読みながら体に染み付いているコースを通れば、無事に家に帰れる……はずだった。
 突然顔面に激しい衝撃を感じる。よろめいてぺたりとしりもちをつき、前を見ると、そこにはモミジの木があった。
「………?」
 深紅に色づいた葉がとても美しい。ひらひらと落ちてきた一枚の葉を手にとって、呟く。
「こんなところにモミジなんてあったか?」
 幹の周りを半周くらいしたところで、頭上の枝からガサッという音がした。思わず見上げると、そこには枝に腰掛ける女の子がいた。
 女の子は木の上で文庫本を呼んでいたのだが、僕の視線を感じ取ったらしく、こっちを向いた。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
「……あ、あぶないっ!!」
 彼女がバランスを崩し、枝から落ちる。僕は慌てて彼女を受け止めようとしたが、衝撃に耐えられずまた転んだ。それでも何とか、彼女が約2.5メートルの高さからまっ逆さまに落ちるのは防げたわけだけど。
「……大丈夫?」
 数秒後に声をかけると、ぽけっとした表情のその女の子は、はっと我に返り、慌てて立ち上がって、うなずいた。僕も今日2度も打ってしまった腰をさすりながら立ち上がる。
 ロングスカートに、上は飾り気のないカットソーとカーディガン。今どきこんな子いないだろってくらい清楚な格好なのに、なぜか髪の毛は赤っぽく染めているみたいだった。
 彼女は、地面をきょろきょろと見回して、何かを探している。
「何探してるの?」
 聞いても、彼女は何も答えない。僕も地面を見渡していると、数メートル離れたところに一冊の文庫本が落ちていた。それを拾って、彼女に手渡す。
「探してたの、これでしょ?」
 彼女はあっ、という表情になって、その本をそっと受け取った。よく見ると、それは僕の読んでいた本と同じ作者の小説だった。
「あっ、それ、この本と同じ作者だよね?この人の話は笑いあり涙ありでマジ面白いよ。ちなみに僕が好きなのは……」
そこまで喋ってから、はっと口をつぐむ。彼女が少しおびえたような表情をしていたからだ。
「…ごめん。 ……じゃあ、もう行くから」
 ついつい調子に乗って喋ってしまったという後悔の気持ちが浮かぶ。
 家の方向に十数歩歩いたところで、声がした。
「あ、あの、」
 歩を止めて、僕は振り向く。
「ありがとうございました」
 少しだが、彼女の表情が緩んだ。弱々しかったけど、それは確かに笑顔だった。僕はさっきと打って変わった軽やかな気持ちで、また歩き始めた。



 テレビのニュースでは、この町で起きている連続失踪事件を報じている。それを聞きつつ半分寝ながら朝食を食べ、学校へ行く。
 今日もいつもと変わらないコースなのだが、あのモミジの木には何とかぶつからずにすんだ。
 今日もいつもと同じ1日が始まる……と思っていたけれど。

「転校生だ。」
 そんな担任の声に、僕は文庫本から目を離し、前を向く。
 担任の横に立っていたのは、昨日の女の子だった。ただ、昨日の女の子は赤髪だったのに対して、この女の子は真っ黒な髪をしていた。
 担任に目で促され、彼女は小さく口を開いて、声を発す。
「小暮 文香です。よろしく」
 なんともあっけない挨拶だった。喋るのは苦手なんだろうか。
 間もなく教室に机が運び込まれ、教室の一角に彼女の居場所ができた。転校生がきたことなんて分からないくらい、彼女は教室に溶け込んでいた。
 彼女は普通に授業を受け、休み時間は昨日の文庫本を読んでいた。ずっと声をかけようとうずうずしていたのだが、結局それを実行に移せたのは放課後だった。
「あ…あのっ」
 彼女の机に駆け寄ると、彼女は少し驚いたように僕を見て、軽く会釈をするように首を動かした。
「髪の毛、染めたんだ?」
「変……かな」
「いやそんなことは全然ないんだけど……」
「…………」
「…………」
 困った。まったく会話がなくなってしまった。本の話をしようかと思ったが、昨日のように怯えられたらどうしよう、という気持ちが先に立って、口を開くことができなかった。
 沈黙を破ったのは、意外にも彼女だった。
「あの、…名前、教えてください」
「山内 祐(たすく)だけど」
 少しの沈黙の後、彼女はもう一言。
「……学校、案内してもらえませんか?」
 0.1秒後に僕はOKしていた。

 校舎の中を二人で歩く。
「ここが職員室で、こっちが…」
 僕の言葉ごとに彼女は小さく頷く。
 昇降口で靴を履き替えて外に出ると、彼女は妙にそわそわとしだした。
「…どうしたの、って、えぇ!?」
 彼女は走り出していた。外はまだ案内してないのに、と走って追いかけたが、校舎の角を曲がったところで彼女を見失った。
 困ったなあ、と左右を見回していると、突然背後にただならぬ気配を感じる。
 振り向くと、そこには明らかに怪しい人間がいた。
 髪の毛は頬の辺りまである上に、いかにも時代遅れな山高帽を目深にかぶっているため、性別が分からない。しかも、昭和か大正風のコート――いや、外套と言った方が正しいかもしれない――を着てステッキを持っていた。何というか、存在自体が骨董品とかアンティークとか、そんな感じだった。そして、何よりも奇妙なのは、無風で、その人間も静止しているのに、むこうずねの辺りまである外套の裾が、ゆらゆらと動いていたことだった。
「お兄さん、赤髪の少女を見ませんでしたかね?」
 芝居がかっていて、また歌うような口調。妙に高い変な声から、この人間が男であることが分かった。
「…知りません」
 僕は毅然とした態度で言う。
「それから、ここは学校に用のある人以外は立ち入り禁止ですよ!?」
「おやおや、これは失礼」
 飄々とした声で言うと、外套の裾を翻し、その男は去って行った。
 背中にじっとりと嫌な汗をかいているのが分かった。
 それから、学校中を探し回ったが、その日は結局、彼女を見つけることはできなかった。



「どうしよっかなぁ……」
 手に持っている2枚の紙切れを見ながら、僕はぼそっと呟く。もちろんただの紙切れではない。この近くのテーマパークの招待券2枚。
 昨日母親に頼まれて買い物に行ったら、福引券をもらったので、何も考えずに福引をした。
 青い玉が出た。カランカランとおなじみの鐘の音がなって、気づくと手には招待券2枚、というわけである。母親はもちろん「いらない」と言っていたし、大学生の兄はテーマパークなんか行く人間でないことは分かっている。
 僕は彼女のほうをチラッと見る。
 急に失踪した次の日、彼女はまったく普通に学校に来た。「昨日、どうしたの?」と聞くと、うつむいて、なんだか怖がっているようだったので、それ以上聞くことはできなかった。
 意を決して、僕は彼女の机の方に行く。
「あの、小暮…さん」
 彼女は文庫本から目を離して、こっちを向く。文庫本は、最初であったとき僕が読んでいた本で、今彼女に貸している。
「あ、えー…っと」
 背中にクラスの女子たちの好奇の視線を感じる。
「こっ、コレ、次の土曜日にっ」
 そう言って招待券のうちの1枚を押し付けて、僕は教室から出た。

 初めて出会った公園の入り口で、彼女は小さく手を振った。僕も自転車の上から手を振り返す。彼女は最初に出会ったときと同じようなロングスカートとカーディガンだった。
 彼女の前に自転車を止めて、言った。
「後ろ、乗って」
 実は今金欠なのだ。だから、昼ごはん代(もちろん、彼女の分も)とか、いろいろ考えていたら、テーマパークへ行く交通費がないことに気が付いたのだ。仕方がないけれど、自転車で行けないことはない距離なので、自転車で行くことにした。
 彼女が自転車の荷台に横向きに乗り、僕の腰に手を回した。少しどきっとする。彼女の髪が、日差しに透けて赤っぽく見えた。
 僕は自転車をこぎだした。後ろだから見えないけれど、彼女の髪が風になびいて、きっと綺麗なんだろう、と思った。

「はい、ジュース」
 そういってジュースを差し出すと、ベンチに座った彼女はそれを受け取る。
「…どうだった?今日」
 今日1日ジェットコースターやメリーゴーランドや……とにかくいろんな乗り物に乗った。テーマパークみたいなところが初めてだったらしく、彼女は最初はびくびくしながら乗り物に乗っていたが、最後のほうはニコニコしてすごく楽しそうだった。
「…楽しかったよ」
 彼女は微笑みながら言う。今日1日で前よりもたくさん会話ができたと思う。
「このままずっとこうしていれたらいいのに」
 突然のこの言葉に、僕はドキッとする。どういう意味か聞くと、彼女ははっとしたように
「な、なんでもない、忘れて」
 と言ったきり何もしゃべらなくなってしまった。
 よく見ると、顔色が悪い。顔面蒼白って感じだ。
「顔色悪いよ、大丈夫?」
「…ちょっと、疲れちゃったかな」
 そういうと彼女は立ち上がった。
「…トイレ行ってくるね」
 少しおぼつかない足取りで、彼女は行ってしまった。
 彼女がいなくなったのを確認して、ふーっと息をつく。やっぱり2人きりっていうのは緊張するなぁ、と思いながら、辺りを見回す。もともと閑散としている上、日も暮れてきたから、人はだいぶまばらになっていた。
 そんな僕の視界の中に、一番見たくなかった、最悪のものが映った。
「……!!」
 あの外套の男だ。男は、きょろきょろしながら、彼女のいるであろう方向へと歩いていく。僕は思わず歩いていって彼を引きとめようかと思ったが、そんな事をしたらこのテーマパークの中に彼女がいることを絶対に知らせることになってしまう。僕はただただ、彼女が無事に帰ってくることを祈った。顔を上げているとあの男をついつい目で追ってしまい、走り出しそうになってしまったので、下を向いた。しかし下を向いたら向いたで、悪い想像ばかりが頭をよぎる。
「どうしたの?」
 頭上から彼女の声がするまで、現実には数分だったのだろうが、僕にはとても長い時間に感じた。
「……そろそろ日も暮れてきたし、帰ろうか。」
 僕がそう言うと、彼女は何も怪しむことなくうなずいた。
 その日の夜、TVではあのテーマパークで連続失踪事件の新たな被害者が出たことを報じていた。



 自室のベッドに体を横たえ、僕はずっと考えていた。あの外套の男は、いったい何なのか。しかし考えれば考えるほど、僕の思考はある一点へと集約していく。
――あの男が犯人で、小暮さんを次の被害者に狙っているんだ。
 あまりにも安易だ、と自分の考えを否定しようとする。しかし、
――今までの犯罪はカモフラージュで、ほんとに狙っているのは小暮さんだ。テーマパークで男は小暮さんを見失ってしまう。仕方がないので、カモフラージュでもう一人殺した。
 結局自分で作ったシナリオに納得させられてしまう。でもまぁしかし、外套の男が彼女を探している事には変わりがないのだし。
 僕はがばっと起き上がって決心する。
――僕が彼女を守るんだ。

「今日、一緒に帰らない?」
 彼女は驚いた顔をする。実は今まで、僕も部活や何やらがあり、彼女も用事があるとかで、一度も一緒に下校したことがなかったのだ。
 彼女は、何かをためらっている様子だった。
「今日僕は部活休みなんだ。それに、何か小暮さん変な男に付きまとわれてるみたいだし。心配なんだ。」
 そんな風にたたみかけると、彼女は勢いに押されたのか、とうとううなずいた。

 通りなれた道を、彼女と2人で歩く。彼女はずっと地面を見て歩いている。会話がまったくない。僕が何か話しかけても、彼女は一言二言話すだけで、ぜんぜん会話が続かない。
 やがて僕らは、あの公園へと入った。
「小暮さんも、通学路同じだったんだ?」
「…うん」
 また会話が途切れる。このままじゃ、どうにもならないと思って、僕は一大決心をして、彼女の手をにぎった。僕から彼女に触れるのは、このときが初めてだった。彼女は驚いたように身を引くが、しかし彼女のしなやかな手は、とても軽く、でも確かに僕の手を握り返していた。
 ふと、彼女が足を止める。気が付くと、僕たちが初めて出会った、あのモミジの木の前に来ていた。赤々と燃えたつような葉の色が、はっと目を引く。
「綺麗な赤だよね」
 僕がそういうと、彼女は下を向いたまま、さっきよりもっとゆっくり、口を開いた。
「この色、何色?」
「え……何色って、赤色じゃ……」
 僕の言葉をさえぎって、彼女はまた口を開く。
「血の色……そして、私の色……」
 そう言って顔を上げた彼女は、悲痛で、何かをこらえきれないと言った表情をしていた。表情と言葉の両方で、僕は戸惑う。
「えっ、それって、どういう…………」
 その瞬間、背中にトンッという軽い衝撃を感じた。そして僕が振り向こうとした次の瞬間、僕は声を聞いた。一度聞いたら忘れられない、あの声を。
「運命を受け入れるか、運命に逆らうか、どっちの覚悟ができたのですかな、お嬢さん?」
「お前はっ……!」
 外套の男は、僕たちのほうに、一歩一歩近づいて来る。何故だか、体が動かない。空気に痺れ薬が混じっているか、または電気が通ってるみたいに、体にビリビリとしたものを感じる。
 男が僕たちまであと4,5歩というときに、突如僕と彼女を赤い渦が包んだ。よく見ると、それは無数のモミジの葉だった。あの木にこんなにあったのか疑問に感じる位のモミジの葉に、僕達二人は取り囲まれていた。
 その渦の中で、彼女は僕に聞いた。
「さっきの話の、続きしていい?」
 僕はうなずいた。モミジの渦のせいか、彼女の髪の毛や瞳に、赤みが増したように見える。
「この、モミジの色は、血の色。そして、私の本当の色も……」
 瞬間、彼女の髪と瞳が、さっと緋色に染まる。
「血の色」
 僕は無意識のうちにそう呟いていた。彼女はうなずいて、また話しだす。
「この血の色は、…人間の血の色。人を食べて、染まった色。私とこの木は同じ色、いいえ元々同じもの」
 無数のモミジの渦は、いつのまにか緋色のアメーバ状のドームのようなものになっていた。
 彼女は、ゆっくりと僕に近づいてくる。
「私たちは、ずっと、人間を食べて生きてきたの。むかしから、そして、今も……」
 自分の中で、触れるのを恐れていた、もうひとつのシナリオが浮かび上がってくる。
「それじゃ、連続行方不明事件の、犯人は……」
 のどがカラカラに渇いていた。
「……そう、私なの……」
 その瞬間、彼女は僕に触れようとした。が、彼女の手は僕の30cm前方で弾かれた。彼女と僕は同時に驚きの表情を浮かべる。その後彼女は呆然とした顔で自分の手を見た。
 さっきまで僕とつないでいたしなやかな手の、中指と薬指がねじれたようにへしゃげていて、やがてもう指と呼べないそれらはアメーバ状になってぼたりと地面に落ちた。
「なんで、なんで!?」
 今までの彼女からは想像も付かないような悲痛な声を上げて、彼女は僕に触れようとする、しかし見えない力に阻まれて、彼女の体は傷だらけになり、傷口からはアメーバ状のものがぽたぽたと落ちていた。
 まるでガラスか何かで隔てられているような状態で、彼女ははらはらと涙をこぼし始めた。鮮やかに赤い、まさに血の涙と呼ぶにふさわしい色だった。
 僕から彼女に手を伸ばした。僕も彼女に触れようと思ったからだ。しかし彼女は僕の手を見ると、そのさくらんぼ色の唇から、カッと正に肉を食いちぎるためだけにあるような鋭いギザギザの歯をむき出しにして僕の指を食いちぎろうとした。しかし見えない力に阻まれて、彼女の口の右側が裂けた。
 裂けた所を指の欠けた手で押さえ、滝のように血の涙を流しながら、彼女はさけぶ。
「あぁぁぁああぁっっっ、好きなのっ、あたし祐君が好きっっ、さわりたいっ、触りたいっ、たすくくんが大好きぃぃっ!!あぁぁぁぁお願いッ、食べさせてぇぇ!!どうしようっ、我慢できないぃぃっ、食べたいぃぃぃぃっっっぁああああああああああっっっっっっっ!!!!」
 彼女の言葉の最後は、もう絶叫に変わっていた。
「ごめんなさい…でも、どうしても、どうしても食べたくて仕方がないぃぃぃぃぃっ!!」
「壁に耳あり障子に目あり、彼の背中に破魔矢あり」
 アメーバ状のドームの外から聞こえた外套の男の声に、僕は背中についていた何かを取る。それは先が吸盤になっている矢だった。
「おのれぇぇぇぇぇっっっっっ!!!」
 いつのまにか、彼女の下半身は緋色のアメーバと融合していた。不意にアメーバのドームが崩れ、視界が開ける。
 外套の男はモミジの木のすぐ横に立っていた。手に持っていたステッキで木の幹をコンッと叩く度に、彼女は絶叫する。
「おやおや、彼の前でそんな醜態を見せてもいいんですかねぇ。」
 相変わらず飄々とした口調である。
「しかし、この程度でそんなに痛がるとは……まだまだこれからだってのに」
 そう言うと男はステッキの手に持つ部分をくるりと回して、ステッキの両端から引っ張る。するとステッキのまっすぐの部分から、徐々に刀の刀身が見えはじめた。
 木が地面に落ちて、コトリと音がする。すべての姿を現したその刀は、不思議な光を放っているように見えた。ステッキの手に持つ曲がった部分は、今はその刀の柄となっている。男はその刀で、モミジの木を斬った。
 モミジの木はぬるりと溶けるようにその刀を受け入れた。肉の焦げるようなにおいがする。しかしモミジの木はすぐにその刀傷を埋め、再生した。
「ほう……こちらにはまだ残っていましたか」
 しかし今の一撃で、小暮さん…だった、緋色の髪を振り乱した「それ」は、ばたりと倒れた。
「……おやおや、もう終わりですか?」
 男が拍子抜けしたような、つまらなそうな声で言う。
「それじゃ、後はこの木を斬るだけ、ですねぇ」
 そう言うと、男は刀を上段に構え、モミジの木に斬りつけようとした、その時だった。
 緋色をした太くて長いニードルのような物体が彼の右肩を貫通した。
「おやおや、まだ生きてましたか」
 男はそれでも、飄々とした口調をしている。ニードルが引き抜かれると、肩に開いた大穴から大量の血がゴポリと零れた。
「お前の血は口に合わない」
 男の背後には、「それ」がぴたりと張り付いていた。下半身がアメーバのような物体になり、まるで蛇の化身のように見えた。そしてその蛇の尻尾は、モミジの木へとつながっていた。
「こうでなくちゃ、やはり面白くないですねぇ」
 山高帽からちらりと見える男の目が、少し鋭くなったように見えた。

「やはり、大したことありませんでしたね」
男は「それ」の首に刀を突きつけていた。
 「それ」も何回も攻撃を仕掛けたが、その攻撃を利き手ではない方の手で持った刀でほとんど防いだ。「それ」の方が、刀に触れただけでダメージを受けてしまうのだから、かなり不利でもあった。
 僕は、その場に呆然と立ちつくしていた。あまりにも現実味がないこの出来事を受け止められず、感覚のごく表面のほうで右から左に流れていくようだった。しかし、僕の目は、「それ」の顔をしっかりと捉えていた。確かに下半身は化物だし口は半分裂けていたけれど、顔は確かに小暮さんの顔だった。
 僕の胸に、あの決心がよみがえる。
「小暮さん……守らなきゃ」
僕はふらふらと「2人」のほうへと歩いていった。

 2人の間に割って入ると、外套の男は驚いたような顔をした。
「ほう、何故そんな化物をかばうのですか?今にもあなたを背中から食らおうとしておる化物を」
 確かに、首元に「彼女」の生暖かい吐息を感じる。僕を狙っていることも分かる。でも、ここに来た瞬間、分かってしまった。自分の気持ちが。
「僕は…僕は彼女が好きだ。食われても構わない。……死んでもお前から彼女を守る。」
 そうきっぱり言い切ると、男はフッと口の端をつり上げた。
「何がおかしい!?」
 瞬間、男は僕の腹に刀を突き刺していた。
「ぎぃやぁぁぁっぁぁあぁぁっぁあっぁ」
 引きつったような叫び声がして、僕の後ろで何かが倒れる音がする。恐る恐る振り向くと、彼女が胸に深い刺し傷を受け、倒れていた。僕は震える手で自分の腹を触る。穴どころか、血さえ一滴も付いていなかった。
「え……」
「この刀は妖怪用なんだなぁ、これが」
 男の言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、僕はその場にへたり込んでいた。
 ぽたり、と雨のような感触に上を向くと、頭上のモミジの枝についている、7つに分かれた葉っぱの先から、緋色の液体が一滴ずつ落ちていた。
「……溶けてる?」
「後はこのまま放っておけば消えるなぁ」
「一体、どういう事だったんだ」
「あんたにゃ分からないだろうし一生わかる必要のないことだ」
「彼女は何だったんだ」
「しいて言えば『末端』かねぇ」
「『末端』?」
 僕は外套の男のほうを向く。男は肩の穴の止血もせずに、刀に付いた彼女の血をふき取っていた。
「そうさね、この木が『本体』で、彼女が『末端』。普通末端で動き回るのは獲物をとるときだけなんだがねぇ。ま、これだけ末端が動き回ってエネルギーを消費してたからこそ勝てたわけだけど」
「でも、どうして?」
 男は僕に冷たい視線を向ける。
「鈍い男は嫌われると思わないかい?」
 そのとき、微かに僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
「祐くん……」
 辺りを見回すと、モミジから出来た緋色の液体の上に、彼女の上半身だけが浮いていた。僕が彼女を抱き寄せると、彼女は僕の首に手を回した。
「あぁ、人間ってこんなにあったかかったんだ…」
 彼女は目を閉じて言う。
「いままでたくさんの人間を食べてきたけど、こんなにあったかいなんで知らなかったよ……」
「小暮さ…いや、文香……」
「本当に、あなたの事好きだったと、思う。テーマパーク、すごく楽しかったよ。また、一緒に行こう?」
「え……」
 彼女はふふっと自嘲めいた笑いをする。
「でも、こんな化物で…嫌いになったでしょ?私のこと……食べたいとか言って、怖かった……でしょ?」
 僕は首を振る。
「何となくなんだけど、覚えてる。祐くん、私の事守ってくれて、うれしかった……今まで、ずっと一人だったから……。」
 思わず彼女をぎゅっと抱きしめる。どちらからともなく顔が近づき、そっと唇が重なる。
 顔を上げると、彼女は微笑んで、
「祐くんのこと、忘れないよ……」
 この後は口が動いているだけで聞き取れなかった。
 やがて、彼女の髪が、体が、顔が、どろりと溶け始める。それと同時に、モミジの木も急に溶けるスピードを上げた。
 ものの十秒も経たないうちに、全ては溶け、あたりは一面血の海のようになった。外套の男が、やっぱり飄々とした調子で言う。
「お姫様は、王子様のキスで溶けてしまいましたとさ」

 ふと気が付くと、すっかり日は暮れていて、モミジの木も、血の海も、外套の男も跡形もなく消えていた。立ち上がると、地面に一冊の文庫本が落ちているのに気が付いた。僕が彼女に貸した文庫本だった。
 拾い上げてパラパラとページをめくると、あるページからモミジの葉がはらりと落ちた。そのモミジを手に取ったとき、僕の視界はそのページにある、1つの台詞をとらえた。
「ありがとう。いつまでもお元気で」
 僕はモミジの葉を元通り挟むと、その文庫本をかばんに入れ、家への道を急いだ。

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