最後のお話

「卒業アルバムが見たい」
 そう彼女が言ったので、僕は本棚の卒業アルバムを手に取り、ボール紙でできたカバーをゆっくりと外す。そして僕は彼女を膝に乗せ、ゆっくりと厚い表紙を開いた。
 まずは校舎や先生方の写真、そのあたりを適当にぱらぱらとめくると、その次に数々の行事の写真がある。
 文化祭や、体育祭や、いくつかの行事に、彼女は何枚か写っている。僕が写真の中の彼女を指でなぞると、
「あんまりじろじろ見ないで」
 彼女は口をとがらせる。
 ……この中に、僕の写真はない。いや、一枚だけ、ある。僕と彼女が隣同士で写っている、小さな小さな写真。彼女は笑顔で僕の髪の毛を引っ張り、僕は無理やり顔を上げさせられている。
 当時僕は彼女にいじめられていた。少なくとも、学校の人々はそんな風に記憶しているだろう。
 彼女と僕はほとんど一緒にいた。と言っても、彼女が僕の制服、時には髪の毛を引っぱり、どこに行くにも連れ回していたからだ。
 ちょっとでも彼女の気に食わないことをすると、僕は殴られた。時には蹴られた。時に僕が何もしなくとも、彼女はなんともいえない表情をして、僕を殴った。それから時たまぼくの昼食を床に落として、それを食べさせたりした。
「ちょっと、いくらこいつがアレだからって、やりすぎだよ」
彼女の友達が彼女を止めると、
「こいつは好きでやってんのよ、だからいいの」
そういって聞かなかった。
 実際僕が好きでやっていたかというとよく分からないところがあるのだけれど、少なくとも僕の中であの約束はそれだけの価値を持っていた。
 彼女と交わした、一つの約束。いや、契約に近いかもしれない。

「……なんであんたは一枚しか写ってないんだろうね」
そう彼女が言う。
「自分からカメラを避けてたからね」
「もったいない……せっかくの記念なのに」
「記念? ……そうだね、言うなればこれは最悪の記念だ」
「どういうこと?」
「こんな写真……アルバムの美観を損なうか、君の引き立て役がいいとこだよ」
「何でそういうことしか言えないんだか」
 彼女は少しいらだつ。
「…次いくよ」
 彼女は何も言わず、その写真を見ている。その視線を遮るようにページをめくると、彼女が僕をにらみつける。
 次のページにも、そのまた次のページにも、凛とした表情の彼女がいる。
 当時彼女はかなり人気があった、らしい。ただそれは後々話に聞いただけだけれど。そもそもこんな醜い男を引き連れている時点で誰も声をかけはしないだろう。しかし、それもまた彼女の謎めいた魅力を増す助けになっていたことを、僕は聞いた。彼女がこの世からいなくなった日に。
 卒業式の3日後、彼女は姿を消した。そして探し当てられた時には、もはや原形をとどめていなかった。
 やがてアルバムは学級ごとのページにさしかかる。クラス全体の写真と、個人写真。5組の僕の顔写真を、彼女はしばらくの間眺めていた。
 周りの写真に比べて、僕の写真はなんだか色味が違う。おそらく写真屋さんの努力のおかげだろうけれど、それでも僕の伸ばした髪の毛からはみ出している顔の傷は消しきれていない。
 僕の顔には大きい傷跡があって、皮膚がひきつれている。事故か虐待か知らないけれど、とにかく僕の顔には傷がある。昔からそれで仲間外れだったし、時にはいじめられた。でも僕はそれを受け入れていた。というか、そういう状況しか経験していなかったのでそういうもんだと思っていた。
 しかし、高校生になったとき、僕を取り巻く状況に変化が訪れる。

「あの頃、」
 しばらく僕の写真を見つめた後、彼女がぽつりとつぶやく。
「あんまり写真見ないでよ、そんないいもんじゃない」
 途端、彼女が僕の手首に噛み付く。
「人の話を遮るな」
「……すみません」
「あの頃、何で嫌がらずにあんなことを3年間?」
「それは加害者の台詞じゃないと思うけど」
「そこはどうでもいいから。 ……やっぱり、あの約束があったから?」
彼女は僕のほうに顔を向ける。絶世の美人ではないけれど、そばかす一つない、陶器のような白い頬。僕はその肌に憧れていた、のかもしれない。
 それは醜い顔を持った者の強烈なコンプレックスだったかもしれないけれど、彼女の下僕だった3年間、僕はずっと彼女の顔を愛し続けていた。いつか僕の手の中に収まる日を夢見て、日々を暮らした。
「そうだろうね。」
「……本当に、それだけ?」

 失踪してから1週間くらい経ったときに、彼女は僕の前に現れた。
 僕は彼女と交わした約束どおり、彼女の首をのこぎりで切断した。体は夜明け前に線路に投げ込み、首は家に持ち帰った。僕の家のテーブルの端が、彼女の定位置になった。
 僕が彼女を線路に投げ込んだ数日後、彼女の葬式に出席した。死因は線路への飛び込み自殺、とされていた。そしてその夜帰宅して、僕はテーブルの上の彼女の顔をうっとりと見つめて過ごした。
 夕食をとるためにしばらくの間彼女から目を離し、もう一度彼女のそばに戻ると、彼女は長い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと瞬きをしていた。
 そこから、僕と彼女の生活はとても静かで穏やかな生活は始まった。
 朝起きると、まず彼女の髪をといてやる。彼女の髪は絹のように艶やかで、いつまでもその輝きを失うことはなかった。お風呂は食道から思い切り水を吸い込み、食事は嚥下した物がすぐに首の根元に溜まっていくのに気付いてから、二度とやりたがらなくなった。出かけるときはかばんの中に彼女を入れていった。帰宅してかばんから出すとやれ苦しいだの、沢山の文句を聞かされた。かといって家に置いていけば、それの数倍の罵詈雑言を浴びせられた。
 気に食わないことが怒るとすぐ怒る、生きているときと笑っちゃうほど変わりない彼女の態度が、その不自由さと相まって、とてもかわいらしかった。
 一度だけ、なぜ彼女が「生きて」いるのか尋ねたことがある。 ……あまりに単純明快な一言で返された。
「魔法だよ」

「……それだけ、って」
「私が、殴ったり、蹴ったりして…痛くなかったの?」
「そりゃ、まぁ、痛かったけど」
 痛かったけれど。
「ごめんなさい。」
「……どういう風の吹き回し?」
 いつも避けられていた僕に、
「私は、ああいう形でしか」
 教師にさえ触れるのを嫌がられた僕に、
「君に触れることができなかった」
 暴力的ではあったけれど、
「普通に触れればいいのに」
 彼女は僕に触れてくれた。
「みんなの前で」
 僕を傷つける彼女の手は、
「君に普通には触れられなかった。」
 それでもどこか優しくて、
「ごめんなさい」
 それは確かに、
「…好きなのに。」
 うれしかったんだ。

 入学してから数週間、孤独を孤独とも感じずに日々を過ごしていた僕に、クラスのとある女の子が話しかけてきた。
「**君てさぁ、もう少しで誕生日だよね?」
「…そうだけど」
なぜ知り合いでもない彼女が僕の誕生日を知っているかは疑問だったけれど、嘘をついても仕方がないので素直に答えた。
「誕生日に何か欲しいものある?プレゼントしてあげるよー」
なぜ知り合いでもない彼女が急にプレゼントをくれるのかは疑問だったけれど、軽蔑されるのには慣れているので素直に答えた。
「君の首」
彼女黒目がちな瞳を少し見開いた。いきなりそんなことを言われて、驚かない方が無理だろう。
 でも、少しの間の後の彼女の答えは、
「いいよ」
 僕の予想を覆すものだった。
「その代わり、今日から卒業するまでずっと、わたしのものになって」
 こうして僕達の約束は始まった。

「……好き?」
「うん」
「僕も好き」
「本当に?」
「うん」
「よかった」
 僕は彼女の顔を自分の方に向けた。彼女は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
 僕はその時、彼女の白い手が、夜明け前の列車によって引き裂かれ、千々の肉片に成り果てていることを初めて悲しく思った。
 僕は彼女を持ち上げて、顔中にキスをした。まぶた、おでこ、ほっぺた、鼻の頭、そして最後にくちびる。それはとても柔らかかったけれど、やっぱり口腔内には体温がなくて、乾燥していた。僕は彼女と舌を絡めながら唾液を流し込んだ。しばらくしてからくちびるを離すと、首の切断面から唾液がぽたぽたと僕のひざに落ちた。彼女は恥ずかしそうな顔をして、僕は笑った。彼女が心の底から愛しかった。ずっとこんな幸せが続けばいいと思った。
 でも、現実はそう甘くはなかった。
「……そろそろ、魔法が解けるお時間みたいね」
 彼女の髪はみるみるうちに艶を失い、肌は弾力を失い、瞳は濁りはじめた。彼女の言う通り魔法は切れて……彼女は腐り始めた。
「まるでどこかのおとぎばなしみたい」
 彼女はそう言って笑った。
「王子様のキスで魔法が解けるなんて」
「王子様なんてたいそうなもんじゃないよ……」
「でも君とキスできてよかった。本当はもっと色々したかったけど…体が無いんじゃどうしようもないし。一緒にいれてうれしかったよ。ありがとう。さようなら。」
 その時僕は、初めて孤独というものに対して、涙を流した。
 僕は彼女にもう一度キスをする。彼女の口の中に舌を入れて、彼女の下あごを上向きに押さえ、そして一気に顔を離した。
 ぶつっ、という、結構大きな音がした。
 僕は床に倒れこむ。彼女は自分のくわえている物から口を離し、そしてそれを見て、いつかのように目を見開く。
 僕の口からは血がだらだらと流れ出て、それでまだわずかに艶の残る彼女の髪の毛を汚してしまう。彼女が何か言っているけれど、よく聞き取ることが出来ない。僕も最後に何か言おうとしたけれど、発した言葉はうめき声にしかならなかった。
 僕はゆっくりと目を閉じる。
 もし、行き着く先が一緒ならば。
 その時は、彼女と手をつなごう。彼女の身体を抱きしめよう。
 ずっと、一緒にいよう。

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