ロリィタ・コンプレックス

 とある夏の暑い日。教室に入ると、そこには人形がいた。

 私はある進学塾で講師をしている。講師としてはいたって普通だ。昼前に出勤して講義の準備をし、学生達の下校時刻に合わせて授業を行い、終わったら生徒の質問に答え、こまごました事務作業をして日付が変わった位に帰宅する、そんな起伏はないが安定した日々を送っている。
 そんな平凡な私の部屋の片隅に、一体の人形が飾ってある。過剰なほどのレースとフリルに彩られた少女の人形を私は毎晩愛でていた。
 小さな帽子の飾りを頭に付け、純白のレースがふんだんにあしらわれた黒いワンピースを纏った目の前の彼女の姿は、その人形がそのまま人間に変身したかのような印象を私に与えた。思わず立ち止まって彼女に見とれていると、夏服の女子高生が私を押しのけた。
 今日は夏期講習の初日だ。夏休みで浮かれている受験生たちをたしなめる。しかしそれは私の意識のごく表層を上滑りしていく。授業中の説明や板書もそうだ。残りの意識は彼女だけに向いていると言っても過言ではない。生徒のほうを向くときは必ず視界のどこかに彼女を捉えていた。
 生徒達に小テストを出題し、それを見回るふりをしながら彼女の姿を凝視した。月並みな言い方だが、陶器のような白い肌に、つややかでまっすぐ長い黒髪。ガラス玉のように澄んだ瞳はテスト用紙を真剣に見つめている。心臓の鼓動が加速するのを感じる。
 私がそのような少女に異常なほど惹かれるようになったのはいつからだったろうか。街でロリータ服を着た少女を目で追い、様々な妄想を巡らす時、私は恐ろしいほどに興奮する。私はそんな自分に半分呆れつつ半分開き直っている変態なのだ。
 授業が終わった後、私は同僚の講師に彼女について尋ねてみた。彼は少し考えた後、そういえば、と言って一枚の入塾申込書を私に見せた。
 その申込書は氏名と備考の欄以外空白だった。
「見ろよこれ」指し示された備考欄に書かれている、おそらく入塾テストの点数を見て私は驚いた。「夏休み直前にふらっとやって来て夏期講習受けたいって言うから、テストを受けさせたらこんな点数叩き出しやがった。これは逃しちゃならないと思って半額で夏期講習を受講させてる」
 ここの塾は成績のいい生徒には授業料を減額する代わりに、合格実績や体験談などで宣伝塔になってもらう、と言うシステムをとっている。
「しっかし、住所も空欄ってのはまずくないか?」私がそう言うと、彼はこめかみを指で叩きながら、
「どうしても書きたがらないからな。それより確保するのを優先しようと思って。後期授業のときにきっちり書いてもらうことにする。とりあえず、お前の授業を受けてる新規の女の子は一人だけだから、お前の言ってるのはこの子のことだろ」
 名前欄にかかれた文字列を、私はしっかりと脳に刻み付けた。

 その次の週から、彼女は授業後に必ず質問してくるようになった。しかも、質問する生徒が複数いるときは順番を譲ってまで最後に質問してきて、その割には彼女の疑問は毎回あっさりと解決し、彼女は校舎を出てゆく。彼女の成績ならば聞かなくても理解できるだろうと不思議に思いながら、しかし質問中は彼女の姿を間近で見れるので悪い気はしなかった。回数を経るにつれ、私達は質問後に雑談を交わす程度までは親しくなった。彼女はいつもロリータ服を着ていて、その授業があった晩には、私は必ず彼女の身体の手触りについて妄想する羽目になった。
 夏期講習の終わりから数えて二週目、私は彼女の質問を解決した後に、入塾希望書を取り出して彼女の前に広げた。しかし、彼女は首を横に振った。どんなに説得しても、彼女がその空欄を埋めることはなかった。
「困ったなぁ」私は頬杖をつきながら、「君をどうしても説得しろって言われてるのに。上司に怒られちゃうよ」
そう言うと彼女は薄紅色の唇をゆっくりと曲げて微笑み、何か言った。聞き取れなかった私は机に身を乗り出した。
 私には聞こえ、他の人には聞こえないくらいの声で彼女は言った。
「もしよろしければ、一緒に花火大会に行ってもらえませんか?」
 数日後にこの塾の近くの河原で花火大会があり、それが塾の休みとちょうど重なっているのは知っていた。しかし、まったく予想していなかった展開に私は呆気にとられ、思わず口から疑問符が漏れ出た。
「……えっ?」
「あの、無理とかなら全然いいのですが、その、」
今まで授業や質問時に見せていた可憐な様子からは想像できないほどの慌てように、思わず笑ってしまいながら私は返答した。
「いいよ、ただ塾にバレるといろいろ面倒だから、絶対秘密で」
彼女は顔をほころばせて頷いた。

 花火大会の日、彼女は浴衣を着ていた。ロリータ服でないのが少し残念だったが、浴衣を着た彼女からはいつもとは違う魅力が感じられ、結い上げた黒髪はとても色っぽかった。
 私が声をかけると、彼女はほっとしたように微笑んだ。待ち合わせ場所で私を待つ間、数人の男性に声をかけられて不安だったらしい。これだけ可愛らしい顔をしていればそれも必然だろう。
 河原の適当な位置に二人並んで座ると、まもなくして花火大会が始まった。花火は美しかったが、私は花火よりも、花火に照らされた彼女の顔ばかり見ていた。
 花火大会が終わりに差し掛かった頃、彼女は私の耳にそっと耳打ちをした。
 今まで家は塾の近所だと言っていたが、本当は家は塾から電車で数駅の場所にあること。私のことを入塾する前から知っていたこと。
 そして、一際うるさい爆発音と共に、彼女は最大の秘密を私に打ち明けた。

 花火大会が終わった後、私は彼女を最寄り駅まで送ることにした。私達は手を繋いで、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いていた。
 家路に向かう人々が会場から方々に去ってゆき、歩く人もまばらになった辺りで彼女は歩みを止めた。
「ん、どうした」
「あの……不躾なお願いで申し訳御座いませんが、少しの間目を閉じて頂けませんか?」
言われたとおり、僕は目を閉じた。
 刹那、唇に柔らかいものが触れた。それが離れようとした瞬間、私は彼女の身体を抱き寄せ、唇同士をもう一度押し付け、彼女の口腔に舌をねじ込んだ。子犬の鳴き声のような音が彼女から漏れる。私は構わずに舌を絡めた。
 彼女が私から離れようとする力は、その細い腕から想像するより大分強かった。最初は私も抵抗したが、すぐにあきらめて体を離した。
 彼女はその場にしゃがみこんだ。立ち上がらせようとする私の手を彼女は振り払った。
「止めて下さい……これ以上されたら、私――」
「俺もだ」
これ以上彼女に触れていると、彼女を永遠に私の部屋に閉じ込めて、汚しつくしてしまいそうだった。

 そこから駅まで、私達はなにも話さなかった。かろうじて手は繋いでいたが、彼女は私の方を一切見ようとはせず、できる限りの早足で歩き、ただ一言だけ、
「ずっとこのままでいれたら、幸せなのに……」
と夜空に向かって呟いた。
 駅の前まで来ると、彼女は何も言わずに私の手を離し、改札口に吸い込まれていった。私はなんとも複雑な気分で彼女の後姿を見つめていた。
 夏期講習の最終週、彼女が塾に現れることはなかった。

 進学塾とはなんともあこぎな商売で、受験生を送り出したその次の週から春期講習という名の新しい受験生を造り出す作業に入る。冬の寒さが和らいできて新入生が増えるこの時期、私は書類の山と格闘していた。
「先生」
聞き覚えのある声に顔を上げ、思わず言葉が口をついて出た。
「……髪、切ったんだな」
「ええ、性癖を封印してがんばりましたよ」
彼女――いや、その端正な顔立ちの青年は屈託のない笑顔を見せた。
「……そりゃあお利口さんなわけだ」
彼の着ている制服は県内随一の進学校のものだった。
「今日は合格報告に来ただけなんで」
「それはうちの塾の実績に加えていいのかな?」
「別に構いませんよ」
そう言って、彼はここからずっと遠くにある大学名を告げた。
「それじゃあ、もうさよならだな」
「そんなこと言わないで下さいよー」おどけたように言った後、彼は声を落とした。
「また、髪を伸ばして会いに来ます。先生のこと、絶対忘れませんからね」
その、少し思いつめたような表情は、やっぱりあの美しい少女だった。
――忘れられないのは、こっちの方だ。
「あれ、あんな奴いたっけ」
「いたよ。夏期講習の時だけだったけどな」
去ってゆく『彼女』の背中を見つめながら、私は同僚に返答した。

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