Plastic umbrella

 その人と初めて出会ったのはとある居酒屋で、私はそのときひどく酔っ払っていた。
 ちりん、という鈴の音に、私は噛み付いた。
「それ私のビニール傘!」
怒鳴られた相手はびくっとして私に謝った。
「あ、ああ、すみません、ビニール傘なんてどれも同じだと」
「ちーがーうーの! わたしのびにーるがさわぁ……」
呂律が回らなくなり、その代わりに目が回って、そして視界は暗転した。
 気が付くと、私は真っ白いシーツの上に寝かされていた。
「んー…」
のりのよくきいた、リネンの感触が心地よい。それを私は全身の肌で感じて……って、あれ? 全身?
「ちょっと待ってよ」布団の中を覗き込む。見紛うことなく、私は全裸だった。
 そっと周りを見回すと、私はホテルの部屋のダブルベッドに寝ていて、昨日着ていた服とバッグはベッドのすぐ側に散乱していた。そしてベッドの足側から2歩ほど離れたところに、男性が一人。
 とりあえずバッグの中から煙草とライターを取り出し、一本くわえて火を付ける。煙を吐きながら今後の行動について考えていると、強烈な吐き気が私を襲った。ベッドから飛び出してトイレのドアを乱暴に開けうずくまっていると、背後から男性の「うーん……」といううなり声がした。色々な考えが頭の中を駆け巡ったけれど、その時の私にはとにかく余裕が無かった。
 胃の中からはほとんど胃液しか出なかった。喉にはりつく焼けるような痛みを感じながら振り向くと、そこには昨日の居酒屋で見た、そして床に寝ていたスーツ姿の男性が立っていた。すばやく胸と股間を隠す私に、彼はコップ一杯の水を差し出した。よく見ると、彼のワイシャツとジャケットには何かの染みが付いている。
「すいません!」私は立ち上がりバッグから財布を取り出す。お札を入れるスペースを見たが、そこには何も入っていなかった。
「……あの、とりあえず落ち着いてください」彼が差し出した水を私は一息で飲み干した。するとテーブルの上にある水差しから、彼は水を注ぐ。それを私は飲み干す。そのやり取りが3回繰り返された後、私は自分が全裸で仁王立ちしていることに気が付いた。
 ベッドに潜り込んで頭だけ外に出し、私は彼に聞いた。
「えーっと、どういうことですかこれ?」
 彼の話によると、私は飲み屋で意識を失い、仕方なくホテルへ連れて来たら、彼に『それ』をぶっかけ、全裸になって寝てしまったらしい。ホテルの部屋はダブルしか空いていなくて、でも私のことが心配だったから床で寝ていた、と彼は言った。
「……すいません、クリーニング代は必ず払います」私は首だけぺこりと動かした。「連絡先を教えていただけますか?」
彼はポケットから名刺入れを取り出して、その中の名刺を私に一枚手渡した。私はベッドから腕だけ出してそれを受け取った。名刺には、聞いたことの無い会社の名前と、社長という肩書きがあった。

 仕事の昼休み中に名刺に書かれた電話番号にかけると、数回のコール音の後、少し低めの声の女の人がでた。
「話は社長からお伺いしております」
名前を告げると声はそう言って、空いている日時を聞いてきた。私がスケジュール帳を眺めつつ答えると、お伝えしておきます、と聞こえて電話は切れた。するとその晩に電話がかかってきて、私たちは数日後再び会うことになった。それを伝えたのも女の人の声だった。
 その日は雨だったので、私はビニール傘を持って出かけた。あの時、彼は私のビニール傘をホテルまで持って来てくれたのだった。歩くたびに、傘につけた鈴がちりんと鳴った。
 待ち合わせ場所は高級そうなレストランだった。
「会社、雑誌で見ました」そう伝えると、一見私より若く見える彼は、はにかんだような笑顔で笑った。
「まだ、若いんでしょ? すごいですね」
「口先と、運だけでここまで来たようなものです」切れ長の目を少し細めて彼は微笑んだ。
 クリーニング代の入った茶封筒を渡そうとすると、彼は頑なに拒んだ。それでも押し付けようとすると、
「クリーニング代の代わりに、」彼は私の目を見つめた。「今日は僕に付き合ってください、最後まで。」
数杯のワインでほんわかしていた私の頭は、こくりとうなずいていた。
 そのレストランの後に入ったバーを出る頃には、私はまた飲みすぎていた。
「気持ち悪いですか?」と聞く彼の声にゆるゆると首を振る。そこまで飲みすぎちゃいない。
「どこ、いくの?」
2人きりのエレベーターの中で彼に問う。
「最後まで付き合ってくれるって言ったでしょう?」そう言って彼は目を細めた。
 行き着いた先は、ホテルの一室だった。
「どういうつもりなの?」
「今日は脱がないんですか?」おどけた調子で彼は言う。
「……帰る」
「今日はまだ残り1時間くらいありますよ。最後まで付き合ってくれるって言いましたよね?」
私は黙り込む。彼はベッドに腰掛ける。
「今日も僕は床で寝ますよ。あなたがそう望むなら」
「それなら私が床で寝るわ」
刹那、彼が私の手首をつかんで、くいっと引っ張った。おぼつかない私の足は簡単にその力に負け、私は彼のひざの上に倒れこんだ。
 そっと抱きしめられる感触とともに、耳元でささやかれる。
「どうしますか……?」
背筋にぞくり、と何かが走る。私はカットソーの裾に手をかけた。
 ほてった肌に触れる彼のジャケットは、ひんやりとしていて気持ちが良かった。

 ふう、と紫煙を吐き出す。彼は私の隣に仰向けで寝ている。
 ……関係を持ってしまった。そういえばこの前の居酒屋では、男に振られてヤケ酒をあおっていたんじゃなかったっけ。この人とはそのとき出会って、会うのは今日が二回目で――ああ、もう考えるのはよそう。
「あのビニール傘」
彼のほうを向くと、彼は首から上だけ動かして私のほうを見た。
「ずいぶんと年季が入ってるね」
「結構長く使ってるから。もう1年くらい。……そっちもビニール傘だね」
「ビニール傘しか使わない主義なんだ、すぐ失くしたり、壊したりするから。あれも新品だよ」
傘立てには、ビニール傘が2本並んでいる。私のビニール傘には鈴が付いているから、すぐ分かる。間違われそうになるのに嫌気がさして付けたのだ。
「すぐ失くす……か」
煙草を灰皿でもみ消して、私はベッドの中に潜り込んだ。そっと彼に抱き寄せられるのに身を任せ、彼の体温を感じながら私は眠りに落ちた。

 目が覚めると、彼の姿は無く、その代わりテーブルの上に一枚の紙切れがあった。そこには仕事に行くという内容、携帯電話の番号、そして、
『一目惚れです』
私はその紙を折りたたんで、失くさないようにバッグの中に入れた。
 傘立てに1本残ったビニール傘には、鈴が付いていなかった。

 その出来事は、私の送る平穏な日常の中のちょっとした起伏として過ぎ去っていった。私は平日に通勤し、休日はゆっくりと過ごし、たまに飲みに行く。雨の日はビニール傘を持って行く。鈴が付いていないビニール傘。
 彼の顔はたまに見かけた。とは言っても、新聞や雑誌やテレビを通してだ。あの紙に書いてあった番号に電話をかけてみたが、帰ってきたのは電話会社の用意した非情なアナウンスだった。声があの時の女の人に似ていると思ったのは気のせいだろうか。
「私もビニール傘みたいなもんかねぇ……」紫煙と一緒に、空間に向かって吐き出す。「ま、いいか、有名人と寝れたってことで」
煙草の本数が増えていることには、気付かないふりをして。

 ちりん、という音に、私は目を開ける。雨の日のこの電車は、いつもにも増して人が多い。座れたのは幸運だった。前を見ると、そこには鈴の付いたビニール傘が立っていた。思わず顔を伏せると、若々しい男の声と、少し低い女の声の会話が頭の上に降ってきた。会話の内容は分からないけれど、そこに誰がいるのかは見なくても分かる。
 車内アナウンスが私の降りる駅を告げる。私は突然立ち上がった。目の前に少し驚いたような彼の顔があった。
「これ、返すわ」
ビニール傘をその人に押し付けて、人をかき分け電車を降りた。
 もう雨は止んでいた。私は当初の予定通り買い物をして、カフェで一休みした。充実した休日のはずなのに、何でため息が出るんだろう。
 ……傘を買おう、そう思った。ビニール傘じゃない、ちゃんとした傘を。私はカフェを出て歩き出した。
 とある歩道橋の上で、私は歩を止め振り返った。
「いつまで付いてくるつもり?」
そこには、グレーのスーツを着て赤いセルフレームの眼鏡をかけた、ロングヘアーの女性がいた。
「駅から付いてきてたでしょ? っていうかあの人の知り合いでしょ」
彼女はポケットから携帯電話を取り出し、何か話し始めた。
「とりあえずもう付いてこないでよね」
そう言って再び歩き出すと、彼女が小走りで追ってきた。
「お願い、待って」
あの少し低い声だ。
「嫌だ。大体あんた何者?」
私も小走りになる。
「私はあの方の秘書ですっ。私も好きでやってるんじゃありません、社長に頼まれて」
「じゃあ社長にふざけるなって伝えといて」
歩道橋を渡りきるまで後数m、といったところで、階段を駆け上がってくる人影が見えた。私は思わず足を止める。肩で息をしながら彼はこっちに近づいてくる。振り向くとすぐ後ろに秘書がいた。挟み撃ちってヤツだ。私は横にフェイントをかけたけれどあっさりつかまって、社長と秘書のサンドイッチというか、おしくらまんじゅうというか……そんな感じになった。
「ちょ……やめなさいよっ、恥ずかしいからっ」
歩道橋の下は7車線位の交通量の多い道路だ。
「大体今更何よ、秘書使って捕まえて、何がしたいわけ?」
「声が、聞きたくて」
彼は肩で息をしながら答える。
「じゃあ何で携帯に電話しても出ないの!?」
「なくした」
「はぁ?」
「ビニール傘間違えたの、わざとだから……君のものを持っていたくて。で、失くさないように気をつけてたら代わりに携帯を失くした」
力が抜けた。それでも社長かよ……。
「そんなん知らないし。さよなら」
そう言って去ろうとした背中に、彼は思いもかけない大声を浴びせた。
「ヤリ逃げかよこのビッチがっ!!」
……あぁ!?
「ヤリ逃げなのはどっちだよバカ! 私、電話したのに……!」
なんだろう、鼻の奥がツンとする。
「……ごめん」
「ごめんじゃ済まな――」
「初恋なんですよ」
「へ……?」
秘書の唐突な発言に、私の口は半開きになる。
「初めて現実に好きな人ができたってね、私に目を輝かせて語るんですよ。恥ずかしいからって私に電話させるし、その傘も、ずっと肌身離さず持ってて」
上等そうなスーツが汚れるのも厭わず、秘書は歩道橋の柵の上にひじをつき、吐き捨てるように言う。彼を見ると、ひどくばつの悪そうな顔をして、
「だから、口先と運だけって言ったじゃないですか」
「……はははは」
「何がおかしいんですか」
笑いと同時に、なぜか涙がぼろぼろ出てきた。
「う……うぐっ……」
「ちょ……こういう時ってどうすればいいの?」
「そんなの自分で考えてください。あー青春っていいねー」
少しの間の後、鈴の音と同時に傘が開く音がした。目を押さえていた手を離すと、彼が鈴の付いたビニール傘をさしていた。そっと彼の顔が近づいてきて、唇と唇が触れた。
「……全然隠れてないですよ、透明だから」
彼が恥ずかしげに目を伏せる。歩道橋から見える景色がにじんでいるのは涙のせいだろうか、それとも劣化したビニールのせいだろうか。

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