ユイちゃんの首輪

 ユイちゃんって言うのは、私の友達だ。
ユイちゃんは、いつも優しくて、ちょっと悲しげな顔をしていて……
私は、そんなユイちゃんが好きだ。

    * * *

 学校へ行く途中、いつもの待ち合わせ場所で、ユイちゃんを待つ。
そして、いつものように、私より2,3分後に、ユイちゃんがそこにやってくる。
いつものように、「ごめん」と、ちょっとすまなさげに微笑んで。
まったくいつもと同じユイちゃんだった。
……ユイちゃんの首に、赤い首輪が付いている以外は。

「ねえ、ユイちゃん……」
「ん?」
ユイちゃんは、いつものように目をちょっと見開いて、私の顔をのぞきこむ。
黒い、澄んだ瞳。
「……その首輪……どうしたの?」
するとユイちゃんは、目を細めて、ほっぺたを少し赤く染めて言った。
「あたしのね、ご主人様が、付けてくれたの」
「ご主人様……?」
 ユイちゃんの言う所によると、ユイちゃんにはご主人様がいるらしい。
「なんだかおにいちゃんみたいで、好きなの」
とユイちゃんは言った。
 ……わたしが、何だかよくわかんなくなって、何もいえなくなって、そして私たちは学校に着いた。
私とユイちゃんは同じクラスだから、席についてかばんを下ろした後、またしゃべったりする。
記憶にも残らないような、たわいもない話。
 それから、始業のチャイムがなり、みんながどやどやと席に着くと、やがて授業が始まる。
いつもの一日が、始まる。

    * * *

 それからのユイちゃんは、やっぱりいつもと同じだったけど、でも、やっぱり、何かがずれはじめていた。
感情の起伏が、日に日に激しくなっていった。
そう、不安定になり始めていた。
それでも、私がユイちゃんに「大丈夫?」と聞くと、
「大丈夫。」
って、ユイちゃんはいつも笑顔で答えていた。
いつものように、ちょっと悲しげな、優しげな笑顔。
私には、それが崩れることのない、完璧な笑顔に見えていた。
私とユイちゃんは幼なじみだから、もう十数年見続けてきたその笑顔。
絶対崩れることはないと思っていた。
でも……

最初は、衣替えのとき。
ユイちゃんは、半袖で学校に来た。
あざだらけの、腕を隠そうともせずに。
「それ、どうしたの?」
私が聞くと、前と同じように、とろんと目を細めて、ほっぺたを少し赤く染めて、
「うん、ご主人様につけてもらったの、なんていうか、愛のしるし……って感じかなぁ。
 ……って、恥ずかしいな、何か…」
ユイちゃんは、とっても幸せそうだった。この時は。
 それからもユイちゃんは、あざを隠そうともせずに、学校に来た。
もとから、おとなしい性格だったから、ユイちゃんの友達は私以外にはあまりいなかったけれど、それからは、だんだんとみんな、ユイちゃんから離れていった。
それでも、ユイちゃんは変わらなかった。
やっぱり、ちょっと悲しげで優しげだった。

それからも、どんどんユイちゃんは、変わっていった。
あの笑顔が、あまり見られなくなった。
そして、授業中に、きゅうに震えて、おびえだすようになった。
 そして、それは、そんな風なユイちゃんが、みんなの中で、普通になりだしたときのことだった。

「またか」
授業をしていた先生が、うんざりしたように言う。
ユイちゃんは、机に突っ伏して、震えていた。
ユイちゃんと一緒に、机といすが震えて、ガタガタ音を立てる。
 うんざりした顔のまま、先生は私のほうを見る。
私は立ち上がって、ユイちゃんを机から引きはがして、保健室へ連れて行く。
……いつものように。

 ろうかの隅で、カタカタと震えるユイちゃん。
 保健室に連れて行っても、ムダなことは分かってる。
この状態が、教室を出た途端に直ることもあるし、授業が終わって放課後になっても、まだ震えているときもある。
保健室の先生にも、治せない。
 ……私は、先生のようにうんざりすることなんて決してなかった。
ユイちゃんが好きだから。

「ユイちゃん」
私がユイちゃんの腕をつかむと、ユイちゃんはおびえた表情で、ゆっくりと顔を上げた。
とたんに、ユイちゃんの口からこぼれだすもの。
コトバのうず。
「やだやめてごしゅじんさまこわいこわいよたすけてやめてごしゅじんさまどうするのいやいやだたすけてごしゅじんさまゆるしてごしゅじんさまううんころしてもうころしていやだやめてやめようよごしゅじんさまたすけてごしゅじんさま」
……もう、慣れてる。
うん、いつものゆいちゃん。
 でも、わたしは、変わったのかもしれない。
昔はすぐ保健室に連れて行っていたけど、今はそんな気分が、ふしぎと起こらない。
だから、
「ユイ」
私は、いつもよりも低い声でいった。
ユイちゃんが、目をはっと見開いた。
「……ご主人、さま……?」
かすれる声で言った。
「ああ、そうだよ」
すると、ユイちゃんの表情は、ぱっと明るくなった。
私の制服のそでを引っ張って(このときはもう長袖だった)、座らせる。
 そのとき、私はユイちゃんの体を、近くでまじまじと見た。
腕にも、足にも、首にも、あざがある。
そして、鮮やかに赤い、ユイちゃんを縛り付ける首輪。
途端に、私のなかに、ある気持ちが起こった。

ユイちゃんが、かわいそう。
このままだったら、ユイちゃん死んじゃうかもしれない。
私が、ユイちゃんを助けてあげなきゃ…

 ……ううん、今から思うと、違うのかもしれない。
私を見たユイちゃんは、とろんとした目で、少しほっぺたを赤くして、ちょっと悲しげに、優しくほほえんでいた。
むかしの「いつも」のように。
でも、私を見つめるユイちゃんの目が、違った。
ユイちゃんの目は、曇っていた。
そう、その目には、物理的には私が映っているのかもしれないけれど、ユイちゃんは、「ご主人様」を見ていた。
……私を、見てほしかった。
何だか、ユイちゃんが、「ご主人様」といっしょに、とこか遠くに行ってしまう気がした。
私と一緒に、いてほしかった。
やっぱり私は、「ご主人様」に嫉妬していたのかもしれない。
だから、ああしたのかもしれない。
あのときは、そんなことに気づいていなかったのかもしれないけれど。
わたしなら、ユイちゃんをもっと幸せにしてあげられる……

「ごめんなさい」
……私が、ユイちゃんの顔に私の顔を寄せて、そっとくちびるとくちびるをふれあわせて、そっと顔を離してから、ユイちゃんは言った。
 そこには、昔の「いつも」のユイちゃんがいて、その目は私を見つめていた。
「ユイちゃん」
ユイちゃんは首を振った。
「大丈夫だから」
「何が大丈夫なの? ユイちゃん死んじゃうよ!」
それでも、ユイちゃんは首を振る。
「ご主人様の命令は、絶対だから。それに私はご主人様から離れられないの。大丈夫、大丈夫だから……」

    * * *

 それから、少し月日が流れたあと、私はいつもの場所で、ユイちゃんを待っていた。
これは、今も昔も変わらない。
 ……でも、いくら待っても、いつもの時間に、ユイちゃんは来なかった。
何だか、へんな感じがした。いつもと違ったからかな……
それで私は、ユイちゃんがいつも来るに歩いていった。
すると、道の途中で、ユイちゃんに出会った。
「ごめん」
いつものユイちゃんだった。
手にかばんの代わりに刃物を持っていて、体中が血だらけなこと以外は。
「ちょっと、ついてきてくれるかな」
ちょっと、はにかんだような表情で。

 ユイちゃんについていって、たどり着いた先には、男の人が血まみれで倒れていた。
 ああ、この人が「ご主人様」だったんだ、と、私は感じ取った。
多分、ついさっきまで「ご主人様」だった物体。
「…この人は、忘れてしまったのね」
ユイちゃんは、その人のほうを向いて言った。
「私にも、牙や爪があるってことを。 ……小さいけれど」
そして、次の瞬間、私のほうにくるりと体ごと振り向いた。
「ねぇ、そう思わない?」
 ユイちゃんは、笑っていた。
 それは、いつもの笑顔……ではなかった。
悲しみも、恐れもない、残酷すぎるほどの純粋な歓喜。
今まで見た中で、最高に美しいユイちゃんが、そこにいた。
 同時に、私は悟った。
ああ、ユイちゃんは、一人で遠くへ行ってしまったのだと。
かたわらの人間とつないでいた手を離し、大きな美しい翼を広げて、飛び立ってしまったのだと。
ああ、なんて綺麗なんだろう、私は思った。
この美しい血まみれの天使に殺された彼は、幸せなのだろうか?

 それからユイちゃんはもう一度「ご主人様」のほうに向き直った。
そしてゆっくりと彼の唇に口を近づけて、口の中にたまって、いくばくかは口の端から流れ落ちている彼の吐血を、まるでそれが素晴らしい飲み物であるかのようにすすった。
それからユイちゃんは首輪を外し、もう一度輪の形にした。
鮮やかな血の色をしたその首輪を、ユイちゃんは「ご主人様」の胸の辺りをめがけて軽く投げた。
ユイちゃんの手を離れた首輪は「ご主人様」の胸の辺りで小さくバウンドして、その周りの時間がたって酸化した水たまりにずるずるとすべり落ちた。
それを見届けてから、ユイちゃんは「新しい」笑顔で一言。
「さよなら、ご主人さま」

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