Zweihandig

 待ち合わせ時間からほんの少しだけ遅れて、彼女はやってきた。少し大きめのコートを着て、白い息を吐きながら駆け寄る彼女に、僕は右手を上げて応えた。
 そのまま僕たちは並んで歩きはじめて、街にあふれかえっている沢山のカップルのなかの一組になる。
 僕と彼女の出会いは、小さい頃から通っていたピアノ教室だ。年齢も入った時期も一緒の僕たちは、同じ時間にレッスンを受けることも多かった。
「君は、どうするの? 音大とか行くの?」
「まだそんなこと考えてもないや」
 僕は今ごく普通の高校の2年生だけど、高校になってからもピアノを続けている。最近気まぐれでコンクールに出たら賞をいくつかとって、新聞にも載ってしまい、自分自身が驚いているくらいだ。
「へぇ……でも君なら絶対受かるよ」
「音楽の先生が騒ぎすぎなだけだって」
 彼女は僕の左手をうっとりと見つめながらすりすりと撫でる。ちょっとどきどきする。
 そんな彼女は数年前にピアノ教室を辞めてしまった。とあることをきっかけに。

 んぁ、と間抜けな声を出して、彼女が立ち止まる。
「ちょっとだけ、いい?」
 上目遣いでおずおずと僕に問いかける。いつもそうだ。
「ちょっとだけと言わず、いくらでも」
 僕もいつものようにそう言う。
 彼女が立ち止まるのは、電気屋さんや楽器屋さんの、ピアノ売り場の前。
 ピアノの前に駆け寄った彼女は、音色を確かめるように数音弾いた後、周りを見回してからまたピアノに視線を戻す。今までとは違う、真剣な目つきになって、彼女はピアノを弾き始める。
 彼女の手が、ピアノをやめてから数年経っているとは思えないくらい滑らかに、ピアノの上を踊る。
 けれども伴奏は聞こえない。鍵盤を叩くのは右手のみ。
 彼女のコートの先からは、左手が見えない。そして、コートの中の手首の先には、何もない。
 数年前、彼女は左手首から先を失った。そしてそれを奪ったのはこの僕だ。

 いつもならば、時計の短針が90度ほど回ったところで彼女は演奏を止め、ちょっとすっきりしたような、でもどこか寂しげな顔で戻ってくる。その間僕は少し離れた所から彼女を見つめている。でも今日は、少し違う。
 僕は彼女の左隣に立った。そして彼女の弾く旋律に合わせて、左手を鍵盤の上で動かした。
 スピーカーから流れる音に伴奏が付いて、今までよりも厚みを増した音が流れ出る。しかし彼女は驚いた顔で僕のほうに振り向き、その曲の右手が奏でるべき音は聞こえなくなる。僕は彼女の視線を無視して左手のパートを弾き続けた。しばらくすると彼女は何かを諦めたかのように、右手の旋律を再開した。
 ざわついた店内の空気へ、僕たちの奏でる曲は溶け出してゆく。

 実のところ、彼女から左手を奪った夜のことは、よく覚えていない。
 残っているのは、包丁が骨を絶つごりっとした感触と、包丁に鈍く反射していた外灯の光だけだ。
 彼女の手を、僕はただただ愛で続けた。それが、純粋すぎる所有欲なのか愛情なのか嫉妬心なのか今でもそれは分からないけれども、手の甲を撫で、頬にこすりつけ、指を口に含み、そっと胸に抱いた。
 でも、僕と左手の蜜月はそう長くは続かなかった。
 生命を絶たれた有機物の腐敗を阻む方法を、幼かった僕は知らなかった。日ごとに強くなる異臭を放ち、ぶよぶよと柔らかくなっていく左手を、僕は泣きそうになりながら見つめることしかできなかった。
 日が経つごとに異臭は強くなり、ついには母親に訝しがられるまでになり、そこで僕はひとつの決断をした。
 家の裏に穴を掘り、そこに左手を埋めた。白くしなやかで美しいそれと別れるのは本当に辛かったけど、仕方がなかった。しばらくの間、せっかく手に入れたものをむざむざ失ってしまった悲しみに沈んでいた。ただ漠然と、僕はこのまま全てを失うのだろうと思っていた。
 彼女の事件は新聞にも載り、学校の帰り道にたくさんの刑事さんとすれ違ったりもした。でも、捜査が打ち切られるその日まで、僕の家に彼らが訪ねてくることはなかった。
 すごく空虚な日々だったけれども、それでも僕はピアノ教室を休むことは無かった。ピアノを弾いていたら、左手のことをはっきりと思い出すことが出来た。自分の左手にそれを重ね合わせた。ごつごつして白くもない、僕の大好きなそれとは似ても似つかないものだけれども。
 頭の中と虚ろな視線の先に、柔らかくしなやかな質感のそれを映しながら、僕は鍵盤を弾き続けた。
 学校の昼休みに単なる思い付きで音楽室のどこにでもあるようなピアノを弾いていた時だって、それを聞いた音楽の先生がおせっかいにも勝手に応募したコンクールで何百万もしそうなコンサートホール用のグランドピアノを弾いていた時だって、僕はただその左手のためだけに曲を奏でた。心の中で、その手のひらに舌を這わせながら。

 店内の照明をてかてかと照り返す鍵盤に、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。今度は僕の手が止まる番だ。
 彼女は涙を流しながら、右手を動かし続ける。不意に、手指の無い左腕を鍵盤に叩きつけた。
 曲は止まり、不協和音が辺りに響く。僕は思わず彼女の名を呼び、抱き寄せた。
 彼女の顔が肩に当たり、耳が僕の口のすぐ近くにあった。僕は意を決して口を開いた。
「……僕が、」
「知ってる」くぐもった声で、しかしはっきりと彼女は言った。「全部、分かってる……」
「じゃあ、どうして――」
 どうして僕を警察に突き出さなかったんだ?
「私の欲しいものは、一つだけだから」……よく聞くと、彼女の声が少し震えているのが分かる。「つぐないなんて、いらない。だから――」
 僕は一回だけ、大きく大きく頷くことしか出来なかった。

         * * *

 左手が切られたとき、最初はただただびっくりして、悲しかった。
 でもしばらく経ってからね、犯人はどうしてこんなことしたんだろうって、考えるようになった。
 考えても考えてもね、全然分からなかった。でもね、ある日突然、気が付いたんだ。
 大好きな人の体の一部がいつもそばにあったら、なんて幸せなんだろうって。
 その人がどこか遠くに行ってしまっても、それはずっと私のそばにいてくれる。
 ずっとずっと、裏切られることもなく、愛し続けることが出来る。
 ねぇ、君はどう思う……?

         * * *

 目が覚めると、彼女がピアノの前に座っていた。ぼくはベッドから起きだして、その横に長い椅子の左半分に座り、右半分に座っている彼女の肩に右腕を回し、こめかみに軽くくちづけた。もう、と彼女は微笑む。
 僕たちはほぼ同時に鍵盤に手を乗せ、全く同じ瞬間に同じ曲を弾き始めた。寸分たがわぬタイミングで、彼女の右手と僕の左手は一つの曲を紡ぎだしてゆく。
 ピアノの上で、僕の右手とホルマリンで満たされた透明なガラス瓶と、針金によって形作られた彼女の白骨化した左手が、響きに伴ってカタカタとごく小さな音を立てる。
 手首の無い僕の右腕と彼女の左腕が無意識に触れ合う。
 鍵盤の上を踊るのは、“一対”の右手と左手。

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